前回はこちら。
八佾第三
祭如在、
祭神如神在。
子曰、
吾不與祭、
如不祭。
祭ること在すが如く、
神を祭ること神在すが如し。
子曰く、
吾祭に與らざれば、
祭らざるが如し。
先祖を祭るときは先祖がいらっしゃるようにし、
神様を祭るときは神様がいらっしゃるようにする。
先生が言うには、
「自分が祭りに参加しないと、
祭りが無かったように感じる」
自分は祭りよりもお盆の方がしっくりくる。
初めてお盆迎えで提灯を持ったとき、祖母に「そこにおじいちゃんがいるんだよ」と教えられ、見えないけどそこに確かに存在するような不思議な感覚とともに、一度も会ったことが無い祖父が自分の傍にいることに対する嬉しさがあり、鮮明に記憶に残っている。
こういう体験をするのとしないのとでは、先祖に対する心構えは全く違ってくるだろうなと思う。
子曰、
事君盡禮、
人以爲諂也。
子曰く、
君に事ふるに禮を盡せば、
人以て諂ふと爲すなり。
先生が言うには、
「君主に仕えるのに礼を尽くすと、
人々はそれをへつらいだと言う」
教えとしては、君主に仕えると、民からのそういう見られ方は付き物だと思っておけ、ということなのだろう。
だが、個人的には孔子自身がこぼした愚痴にも思え、孔子の人間味を感じる一節だ。
里仁第四
子曰、
不患無位、
患所以立。
不患莫己知、
求爲可知也。
子曰く、
位無きを患へず、
立つ所以を患へよ。
己を知ること莫きを患へず、
知らるべきを爲すを求めよ。
先生が言うには、
「地位が無いことを気にするのではなく、
地位を得る方法を気にかけなさい。
他人に自分が知られていないことを気にするのではなく、
他人に自分が知られるためにすべきことをしなさい」
欲している物が手に入らないと嘆く暇があったら、手に入れるための努力をしなさい。
耳が痛いお言葉である。
子曰、
德不孤。
必有鄰。
子曰く、
德孤ならず。
必ず鄰あり。
先生が言うには、
「徳を持った人は孤立しない。
必ずその人を慕う人が隣にいる」
こちらも論語で有名な一節の1つだろう。
真逆の人間が幅を利かせる現代では疑わしく聞こえる一節だが、徳に惹かれて集まる人は一生ものという意味もあるのだろう。
公冶長第五
子謂子貢曰、女與回也孰愈。
對曰、
賜也何敢望回。
回也聞一以知十、賜也聞一以知二。
子曰、
弗如也。吾與女、弗如也。
子、子貢に謂つて曰く、女と回とは孰れか愈れる。
對へて曰く、
賜や何ぞ敢て回を望まむ。
回や一を聞いて以て十を知る、賜や一を聞いて以て二を知る。
子曰く、
如かざるなり、吾女の如かざるを與さむ。
先生が子貢に問うて言うには、「お前と顔回とではどちらが優秀かな?」
(子貢が)答えて言うには、
「私なぞどうして顔回より優れるでしょうか。
彼は一を聞いて十を理解することができますが、私は一を聞いて二を理解する程度です」
先生が言うには、
「及ばないね。私もお前と一緒で及ばないよ」
顔回は孔子の弟子の一人で、最も孔子に愛された弟子である。
(孔子は弟子たちにそこそこ手厳しいことを言うが、顔回は例外で手放しで褒めちぎっている。)
「一を聞いて十を知る」の原典は実はこれらしい。
聖徳太子の方が馴染みがあるが、その時代には既に論語が日本に渡っていたということなのだろう。
雍也第六
子曰、
賢哉回也。
一簞食、一瓢飮、在陋巷。
人不堪其憂、回也不改其樂。
賢哉回也。
子曰く、
賢なるかな回や。
一簞の食、一瓢の飮、陋巷に在り。
人は其の憂に堪へず、回や其の樂を改めず。
賢なるかな回や。
先生が言うには、
「顔回は素晴らしいね。
竹の弁当箱一杯のご飯と、瓢の水筒一杯の飲み物で、狭い路地に住んでいる。
普通の人はその苦痛に耐えられないが、顔回はその質素な生活の楽しみを忘れない。
顔回は素晴らしいね」
こちらも、孔子が顔回を称賛している一節。
四字熟語「箪食瓢飲」の原典でもある。
冉求曰、
非不說子之道、
力不足也。
子曰、
力不足者、中道而廢。
今女畫。
冉求曰く、
子の道を說ばざるに非ず、
力足らざるなり。
子曰く、
力足らざる者は、中道にして廢す。
今女は畫れりと。
冉求が言うには、
「先生の道を教わることは喜ばしくないわけではないのですが、
その道を得るには私には力が足りません」
先生が言うには、
「力が足りない者は、努力している途中で諦めてしまう。
今、お前は自分の限界を決めてしまっている」
諦めたらそこで試合終了ですよ。
この一節を見たとき真っ先にこれが頭に浮かんだが、逆にスラムダンクを読んでこの論語の一節が出てきた人はいるのか?
子曰、
中庸之爲德也、其至矣乎。
民鮮久矣。
子曰く、
中庸の德たるや、其れ至れるかな。
民鮮きこと久し。
先生が言うには、
「中庸の徳は最上の徳である。
だが、民の間でこの徳が少なくなってずいぶん経ってしまった」
「中庸」とは「過不足なく平常である様」、ざっくばらんに言えば「ほどほどである様」だ。
「過ぎたるは及ばざるが如し」とも共通する。
現代人は白黒、善悪をつけたがるが、これもある種、中庸から外れてるということだろう。
次回はこちら。
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