【思考録】1-6:「私」という人間

思考録

 以前の記事

にて、なぜ私が就職したくなかったかを書いてきた。

 そして、私に就職に対して嫌悪感を抱かせたのは、
 ・企業人は社会に貢献しなければならない
 ・仕事では付き合う人を選べない
 ・成果主義の台頭
という事象であると述べた。

 ではなぜ、私はこういったことに嫌悪感を抱くのか。
 自身の本質を暴きながら思考する。

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根が人間不信

 真っ先に思ったことがこれだ。
 これは前々から思っていたことでもある。

 私は「人間だれでも、状況次第で自分を見捨てる」と思っている。
 職場の人間なんて当然で、例えそれが友人でも、家族でもだ。

 この考えが根本にあるから、不特定多数の人間のために働きたいとは思わないし、付き合う人間は自分で選びたいと思う。

 もちろん、自分で親しく付き合うと決めた人も、私の中では裏切る可能性を持っている。
 裏切る可能性を肯定しておきながら付き合うのだから、例え本当にその人に裏切れられたとしも、私には文句を言う資格はない。
 裏切られると分かっていながら裏切られるのが嫌なら、最初から人付き合いなんてしなければいい話だからだ。

 だから私は、自分で親しく付き合うと決めた人については、向こうの勝手で私が裏切られたとしても、絶対に文句を言わないと誓っている。
 私の「人を見る目」がなかったのだと。
 もちろん、そういった予兆(例えば誰彼かまわず金を無心しているなど)を察知した際には、付き合い方を改めることを検討する。
 だがそういった予兆がなく(あるいは私が察知できず)、うまく騙され陥れられた場合は、言い方は悪いが「泣き寝入りする」と決めている(もちろん、その後の付き合あいは一切断つが)。

めんどくさがり

 今まで何度も言ってきたことだから、深くは書かない。
 面倒だし。

人より上に立ちたい

 これは「人間不信」だからこそ生まれる欲求だと思う。
 人が信じられない状況で、少しでも居心地よく生きていきたいなら、人から慕われ、尊敬され、自分に逆らえない状況を作ればいい、というわけだ。

 だからこそ、自分の優位性を少しでも危うくしかねない状況、例えば、失敗する、貸しを作る、反論される、怒られる、馬鹿にされる、恥をかくといった状況をとことん嫌い、避けようとする。

 その結果、
 ・何か新しいこと、大きなことをする際は、できるだけ準備に時間をかけ、万全の態勢で臨もうとする(完璧主義者)。
 ・大なり小なり、責任を伴う状況からなるべく逃げようとする。
 ・自分のキャパを超えていると判断した状況からは、責任の有無に関わらず逃げようとする。

 成果主義の台頭に対する嫌悪感の源はここにある。

 「結果を出せ」と言われた際、面倒くさがりな性格の持ち主が自らの優位性の確保を基準に思考する結果、
 ・「失敗する」⇒自分の優位性が揺らぐ。⇒嫌だ。
 ・「頑張る」⇒結果が出る保証もないのに頑張るのが面倒くさい。⇒嫌だ。
となり、いずれにしても嫌悪感を抱かざるを得ない。

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終わりに

 めんどくさがりで人を信じられない。
 だから、人が自分を慕う状況、人が自分に逆らえない状況を作ることに行動の重きを置く。
 これが、私という人間だ。

 「隠居したい」という願望から始まり、死にたいと思う理由、就職への嫌悪感、そして私自身の本質を表出させるところまで辿り着かせた、私自身に対する長い長い思考はここで一区切りつけられると思う(というかつけたい)。

 今後は、本当の意味で雑記レベルの思考、ふとした出来事や小耳に挟んだ情報に端を発する思考を文章化していきたいと思う。
 (できる範囲で無理ない程度に。)

 

 END

 

 ※追記
 以前からモヤモヤしていたことについて考えてみた。

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