「積極的に動け」「能動的な行動が評価を上げる」「積極的な姿勢が足りない」…
ビジネスや教育の場でよく使われる、この「積極的」「能動的」という言葉。
私は長い間、この言葉を使った上記のような言い回しに、煮え切らない違和感を抱いていた。
高校時代の話
前置きとして、高校時代の話をしたい。
学年主任の先生がよく言っていた言葉がある。
受動的学習から、能動的学習へ発展させろ。
ここでいう「能動的学習」は「アクティブラーニング」とは別物だ。
曰く、宿題だったり、テストのためだったり、何かに追い立てられて勉強するだけでなく、そこから一歩踏み込んだ内容を勉強したり、関連する内容を探したり、自分の意志で「何かを知る」ための行動を起こせ、とのこと。
(「能動的」という言葉には「他に働きかける」という意味がつくから、厳密には「自発的学習」と言うべきだろう。)
この言葉を最初に聞いたとき、私は
いや、ただでさえ暗記することがいっぱいあるのにそんな余裕ねえよ。
と心の中で盾突き、実際に「能動的学習」をやったことも(記憶している限り)一度もない。
今思えば、誰かから「積極的に(能動的に)○○しろ」と言われたのは、これが初めてだった気がする。
(実際はそれ以前にも言われたんだろうけど覚えてない。)
以後、大学生、社会人となり、ことあるごとに「積極的に~~」という言葉を耳にするようになっていった。
しかし、当の私はこの言葉に対し、素直に「は~い」と従う気にはどうしてもなれなかった。
心のどこかにもやもやとした違和感を抱えたまま、この言葉に触れ続けてきたわけである。
違和感の正体
そんなとき、ふと思ったのだ。
『積極的にやれ』って命令形だよな?
意に反する命令になった時点ですでに、本当の意味での『積極性』『能動性』は失われるんじゃないか?
「積極性」と「能動性」は多少意味の違いはあれど、「行動の肯定的な動機付けが存在する」という部分で共通している。
(動機付けの発生源が自分か他者かは関係ない。)
つまり「自ら進んで行動に移す状況」が作られて初めて、「積極的」「能動的」という言葉をその状況に当てはめることができるのだ。
思えば、私がこの「積極的に~」「能動的に~」という言葉に違和感を感じたのは、その「~する」ことが嫌だったときだった。
例えば、先述した高校時代の話。
勉強したくないのに「能動的学習をしろ」と言われたところで「やるわけねえだろ」となるわけだ。
そして就職活動時も「積極的に動きましょう」とか「積極的に情報交換しましょう」とか言われたが、どれも「私がやりたくない」ことだったから、言われるがまま動いてみたけど「積極的」に行動しているとは思えなかったのだ。
本来の使い方
そのため本来、この「積極的に~せよ」とか「能動的に~せよ」という言い回しは、相手が「自ら進んで行動を起こすことができる環境」にあって初めて効果を発揮する言葉なのだ。
そして、「自ら進んで行動を起こすことができる環境」を作るのは、相手ではない。
この状況を作るのは「命令する側の人間」、すなわち上司や教師など人を育てる立場にある人間だ。
それはおかしい。
なんでわざわざ命令する側の人間がそこまでお膳立てをしないといけないんだ。
考えてみてほしい。
なぜあなたは相手に対して「積極的に~しろ」と命令するのか?
積極的に動いてほしいのに、当の相手が積極的に動かないからだろ?
(こちらが何もせずに相手が積極的に動いてくれるなら「積極的に~しろ」と言う必要もそもそもないはず。)
相手が積極的に動かないということは、相手はそれをなんらかの理由でやりたくないのだ。
やりたくもないことに対して、相手が無理やり「自ら進んで動く状況」を作って動いたとしても、それは本当の意味での「積極的な行動」ではない。
そんなことを相手に何度も強要させていたら、いずれ相手が精神的に崩れてしまう。
みんな我慢してるんだから我儘言うな 。
そもそも、心では嫌でもそれを我慢して積極的に動けないようじゃ、子どもと同じだ 。
心が嫌がっているのに我慢をして、ストレスをためて心身に異常をきたしたり他人に迷惑をかける行為に走る方がよほど愚かではないか?
てか、子どもだと思うならそう思ってくれても構わない。
「積極的に何かをさせる環境」って?
本当の意味で相手に積極的に動いてほしいなら、相手が気持ちよく行動に移せるための環境をこちらで準備しなければならない。
要は「ギブアンドテイク」ということだ。
じゃあ、その「相手が気持ちよく行動に移せるための環境」ってどうやって作るんだ、という話になる。
相手のために全面的にバックアップできるサポート体制を整えなきゃいけないのかとか言われそうだが、私はそこまでする必要はないと思う。
基本、私は人を動かすきっかけは下記の2パターンしかないと考えている。
・対象となる事象に興味を抱かせる。
・相手にとって魅力的な人間になる。
前者「対象となる事象に興味を抱かせる」は、例えば学校の先生だったら「勉強は楽しい」、会社の上司なら「仕事は面白い」と相手に思わせるようにするということだ。
勘違いしないでもらいたいのは「『勉強は楽しい』『仕事が面白い』というあなたの思いを熱意をもって伝えよ」ということではないということ。
熱意はあっても、人によってはただの個人的興味の押し付けと捉えかねない。
伝えるだけでなく(というか伝えなくてもいい)、相手が「勉強は楽しい」 「仕事が面白い」と思わせるきっかけを作れということだ。
そして、このきっかけ作りは、本当に「勉強が楽しい」「仕事が面白い」と思っている人間にしかできない。
そういった意味でも、話が脱線するが、「部活指導がしたくて教師になった」とか「野球を教えたくて教師になった」という志望理由で学校の先生になるのはどうなんだと思ってしまう。
学校の先生の本業はあくまで「学業の教授」であり、「勉強が楽しい」もしくは「担当教科が面白い」と本気で思ったことがある人が先生にふさわしいのではなかろうか。
(部活ありきの志望理由でも「勉強が楽しい」と思ったことがあるのなら構わないんだけども。)
後者「相手にとって魅力的な人間になる」は、人となりで相手を引っ張っていくスタイルだ。
わかりやすい例でいうと、好きになった人が外国人で日本語がうまく話せない場合、本気で好きならその人の母国語を熱心に勉強するだろ?
あるいは、尊敬している人に「こうした方がいい」とか言われたら、よほど嫌なことでなければその通りにするだろ?
例え苦手なことでも、魅力を感じる人に関係していれば、肯定的な動機付けで人は行動に移すことができるのだ。
そしてこちらもこちらで、相手にとって魅力的な人間であるための努力は必要だ。
終わりに
「積極的」「能動的」という言葉を使うためには、 相手が気持ちよく行動に移せるための環境を用意する必要がある。
そしてその環境を用意するには、自分が扱っている事象を愛し、かつ人から魅力的にうつる努力をしなければならない。
私は、上記の2つのいずれも当てはまっていない。
だから今の私に、誰かに対して「積極的に~~しろ」「能動的に~~しろ」と言う資格はない。
自信をもってこれらの言葉を言える日が、果たして来るのだろうか?
END
※追記
この間の参院選で思ったこと。
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