こころのふるさとは皆持っている?
概要
文学者・谷川ゆにが日本各地の土着信仰や風習を取材し、まとめた紀行エッセイ。
北は北海道、南は沖縄まで計12か所をめぐり、各所に住む人々、自然、風習に触れながら、各地に根差す死生観を考察する。
さらにそこから、日本人が共通して内包していると思われる「たましいのふるさと」の正体を探る。
レビュー
考えるな、感じろ。
まさかこの一節を新書のレビューで書くことになろうとは思わなかった。
だが本書のいう「たましいのふるさと」はあれこれ考えるより、ただ周囲の自然に身を任せてぼーっとしている方が感じやすい。
昔から人々が身を寄せてきた自然や信仰がトリガーとなって、勝手に体の底から沸き起こるものだ。
かつての日本人は、「あの世」の者をより身近に置いてその存在を知覚し、その先に無意識に「たましいのふるさと」を感じていた。
現代になり、そういった「たましいのふるさと」を感じる入口となってきた風習や行事が、その意味を忘れられたり、そもそも廃れたりして、我々の周囲ではそういった類のトリガーが減ってきている。
そもそも、現代人は今を生きるために精一杯で常に考え続けていてぼーっとする暇はないし、身を委ねられるほどの自然も少なくなくなっている。
これでは「たましいのふるさと」が感じられなくなるのも仕方がない。
著者は典型的な都会っ子で、いわゆる「田舎」を持たず、もちろん「たましいのふるさと」を感じるトリガーに囲まれて育ってはいない。
そんな著者でも、条件が揃えばそのトリガーはしっかり働き、言いようのない懐かしさを覚えた。
自分は著者とは違って「田舎」がある。
じゃあ「たましいのふるさと」を感じたことがあるか?というと、自分の記憶では無い。
当たり前といえば当たり前で、なぜなら自分はおうち大好きなインドア派で、自然に囲まれるという体験そのものが少ないからだ。
それに田舎に土着的な信仰や風習にさほど興味がないこともある。
これは、自分は入る墓(じいちゃんが建てた墓)がもう決まっていて、最終的に収まる場所があることも大きいように思う。
最後はじいちゃん、ばあちゃん、家族と一緒になれるから、無理に帰る場所を探す必要はない。
じいちゃんはつい最近亡くしたが、今になって、よく幼い頃にじいちゃんの胡坐の中に納まって可愛がられていたことを思い出す。
あ、あったわ。俺の「たましいのふるさと」。
最後死んだら、俺は3~4歳頃の幼児になって、またじいちゃんや親父の胡坐に納まって可愛がられようかな。
終わりに
じいちゃんは90歳越えの大往生だった。
最後は認知症が進んで妻(ばあちゃん)、息子(親父)、孫(俺)のことも忘れていたが、最後まで覚えていたのは両親(曾祖父母)の名前だった。
曾祖父母がじいちゃんにとっての「たましいのふるさと」だったことは間違いないだろう。
墓こそ別れたが(曾祖父母は長男の墓だが、じいちゃんは次男なので別)、向こう側で曾祖父母に逢えただろうか。
END
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