【書評】岩波文庫「論語」金谷治訳注

書籍

 いきなりの古典。

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概要

 春秋時代の中国の思想家・孔子とその弟子たちの言行の記録であり、「四書五経」の代表格として親しまれてきた古典である。

 日本でも古くから教養書として読まれてきたが、太平洋戦争後の教育課程では古典として扱われるようになり、教養としての存在感はなくなっている。

 本書は古代中国思想の専門家である金谷治による訳書である。

レビュー

 完全に、阿川氏や藤原氏に触発された形である。

 実は本書、(動機は忘れてしまったが)大学時代に購入した文庫の1つである。

 ただ買ったはいいものの読破することはできず、結局そのまま実家の本棚の肥やしとなっていた。

 今回は大分時間がかかったが、そのリベンジマッチである。

 

 さて、論語を読むにあたって知っておくべき概念がある。

 南総里見八犬伝でお馴染みの仁義礼智忠信孝悌だ。

 各文字の意味をここで改めて見直しておく。


 人を思いやること。親愛の情。


 正しい行いを守ること。人の欲望を意味する「利」の対義語。


 道徳的な規範、ルール。「礼」を重んずることが「仁」とされる(克己復礼)。


 人を知ること。人に興味を持ち、知ろうとする姿勢と捉えても良いか。


 主に主君に対して、裏表のない態度を示すこと。真心。


 嘘をつかず、約束を守ること。誠実。「忠」に近いが、対象が朋輩、後輩である点で異なる。


 自身の父母を敬い、支えること。


 家庭内外での目上の人(主に家庭内では兄、家庭外では年長者)に従い、よく仕えること。

 これを頭に入れておくと、孔子の言葉の意味が理解しやすい。

 

 おそらく同じように思っている人もいるだろうが、自分は最初、論語は単に孔子が残した「ありがたいお言葉」の羅列というイメージがあった。

 だが訳者のはしがきには、論語を読み進めると孔子とその弟子たちの人間像が浮かび上がり、次第にその魅力にとりつかれる、という旨の言葉が記されている。

 最初は半信半疑だったが、確かに読み進めると孔子の人間臭さを随所に感じ取ることができる。

 具体的に挙げていくと

  • 「君主に仕えるのに礼を尽くそうとすると、民はそれをへつらいだと言う」と、自分の行いに対する民の捉え方に愚痴を漏らす。(八佾第三-十八)
  • 音楽に心を奪われて、数か月間肉の味を忘れるほど呆けてしまう。(述而第七-十三)
  • 政治家の理想の姿を弟子に説きながら、今の政治家を「つまらない人たちだ」と嘆く。(子路第十三-二十)
  • ろくでなしの旧友・原壌に出くわした際に原壌を罵り、自分の杖で原壌の脛を叩く。(憲問第十四-四十五)

といった感じだ。

 孔子本人は決して聖人君子ではないのである。

 

 また、「中国外部の部族に君主がいても、君主がいない中国にも及ばない(八佾第三-五)」と、いわゆる「中華思想」が孔子にもしっかり根付いていたことも分かる。

 

 弟子とのやり取りもなかなかリアルだ。

 基本は褒めるスタンスではあるが、「子羔は愚かで、曾は鈍く、子張は誇張し、子路は粗暴だ」と名指しで厳しく指弾することもある。(先進第十一-十八)

 子貢に対しては「どこへ出しても恥ずかしくない(公冶長第五-四)」と認めている一方で、子貢が「他人が自分にしてほしくないことは、自分も他人にしないようにしたい」と言うと「お前にできることではないぞ」と一蹴する場面が見られる。(公冶長第五-十二)

 宰予に対しては、彼が怠けて昼寝をしている様子を見て、(これまではその人の発言だけでその人を判断していたが)言葉と行動の両方を注視するようになったと、弟子の振る舞いに影響を受けて自分の考えを改める様子も書かれている。(公冶長第五-十)

 また、弟子の子游が宰相を務める町に他の弟子たちとともに出向いた際、わざと戯言を吹っかけて弟子たちを試すような場面もある。(陽貨第十七-四)

 

 弟子に苦言を呈することもある孔子だが、顔回という(唯一と言っていい)例外も存在する。

 顔回に対しては、ほかの弟子が「同門の顔回には遠く及びません」と言うと孔子は「私もだ」と賛辞を送る(公冶長第五-九)など、基本べた褒めで諫めることがない。

 こういったやり取りが随所で見られ、読み進めていくうちに確かに孔子とその弟子たちが言葉を交わす様子が浮かび上がるようになる。

 

 阿川氏は「大人の見識」の中で、「論語は聖典(ありがたいお言葉の羅列)ではなく、孔子とその弟子たちの伝記的言行録として読む方が良い」という福原麟太郎の意見に賛同している。

 個人的にもその方が心理的なハードルが下がり、変に肩肘張らずに読み進めることができると思う。
 (実際自分もこのスタイルで面白く読み進めることができた。)

 後は単純に読む回数をこなせば、自然と自分が必要と思う内容は頭に刷り込まれていくだろう。

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終わりに

 素直に、一度頓挫した古典を読破できたのは嬉しい。

 こうなってくると別の古典にも手を付けたくなってくる。

 四書五経はもちろん、孫子も気になる。

 どうしようか…

 

 END

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