【思考録】9:「伝統」という名の「悪習」

思考録

 ずっと抱えていたイライラ、やるせなさをぶつける。

 不快な思いをしたくない方は回れ右。

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伝統校

 自分は長い歴史を持つ高校、いわゆる「伝統校」と呼ばれる高校に進学した。

 テレビでたまたま母校の特集が組まれているのを奥さんに教えられて観たのだが、感じたのは懐かしさよりもやるせなさと呆れだった。

 

 「伝統校」というだけに、母校にはいろいろな「伝統」が存在する。

 新入生への「校歌指導」なんてあるあるなものから、こんなのやる必要あるか?と言いたくなるバカバカしいもの、とてもここでは詳細を書けない「検閲により削除」レベルのアブナイものもある。

 自分もこれらを実際に経験した身であり、同時に憧れを抱いて入学した母校に幻滅する大きな要因になった。

 

 そんな母校を卒業して10年以上の月日が経った今、さすがに母校もちょっとは変わったか?と淡い期待を抱いていたが、期待した自分がバカだった。

 テレビでは上に書いた「伝統」が10年前の姿のまま映され、さらにスタジオではその「伝統」をを称賛する。

 この10年、何も進歩してねえじゃねかこの学校。

 

 テレビで映された「伝統」を、生徒たちが本心から称賛して継承しているならまだ良いし、自分が横から口を出すのは野暮だ。

 だが、不本意のもとで継承しているなら問題だ。

 ありがちなのは、「自分も経験したんだからお前も経験しろ」という「伝統」の押し付けや、なんの理由もなく「伝統だから」と盲目的に継承されていくパターン。

 そんな理由で継承されていく「伝統」は「伝統」なんて名乗るべきじゃない。

 それはただの「悪習」だ。

時代に沿わない「伝統」はいらない

 「常識」は時代とともにアップデートされていく。

 良識ある人間ならこのことは重々承知しているだろう。

 

 当然同じことが「伝統」にも言える。

 今の時代に即して考えたとき、本当にこの「伝統」は残す価値があるのか?

 そもそも、この「伝統」が生まれるきっかけは何だったのか?

 今の時代でも、同じきっかけで同じ「伝統」が誕生し得るのか?

 もしそうでないなら、その「伝統」が今の時代に存在する意味は無く、今の時代に即した形にアップデート、もしくは「伝統」そのものを無くすことも必要だろう。

生徒に選択肢を

 ただこんな反論もあるだろう。

 時代に即していなくても残す価値がある「伝統」だってあるだろう?

 「着物」だって機能性に優れた服がある現代でわざわざ着る必要性は無い。

 「書道」も文字を所定のデバイスに打ち込めば綺麗に印刷できる現代でわざわざ習得する意味は無い。

 でもどちらも日本に残すべき「伝統」として民衆の支持を受けて存続しているじゃないか。

 

 いかにもその通り。

 だがだからと言って、「着物」や「書道」の継承を全ての日本人に義務化するのは違うだろう。

 支持したい人が支持して継承していけばよい話だ。

 

 だが伝統校ではまさに、「伝統」の継承を全校生徒に義務化していることが往々にしてある。

 これは違うだろ。

 生徒だって十人十色で好き嫌いがあるし、その「伝統」に魅力を感じるか否かは本来は個人の自由のはずだ。

 だから学校は生徒に、「伝統」を継承するか否かの選択肢を与えなければならない。

 そして、双方は双方の決定を尊重して、決して干渉しあってはならない。

 例えば「伝統行事」と呼ばれるイベントに参加するか否かは自由であり、参加しない生徒を無理やり参加させることも、逆に「伝統行事」を「時代遅れだ」とぶち壊すようなこともしてはならない。

 だがもし、「伝統」の継承を望む生徒が1人もいなくなってしまったら、もうその「伝統」には存在価値は無いと思って良いのではないか。

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終わりに

 今までずっと考えてきたことなのに、なぜ今まで文章化しなかったのか不思議でならない。

 たいてい、盲目的に昔のことを引き継ぐことを続けていくとロクなことにならない。

 早くこのことに気づいて、伝統校から「悪習」が1つでもなくなれば、より子どもたちが活き活きと学校生活を送れると思うのだが…

 

 END

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