概要
19世紀のドイツの哲学者・アルトゥール・ショーペンハウアー(ショウペンハウエル)による、出版物への人間の姿勢に対する諫言集。
古典名著の一つで、複数の出版社から日本語訳が出ている。
今回読んだのは下の岩波文庫版で、表題の他に2編が収録されている。
私見
本書には「思索」「著作と文体」「読書について」の3編が収録されている。
正直に言うと、「著作と文体」についてはしっかり読んでいない。
ここにはドイツ語の文法を軸にした具体的な著述について論じられており、深く理解するためにはドイツ語文法の知識を必要とするからだ。
ただ他2編の「思索」と「読書について」は、考え方の根本が同じであり、ショウペンハウエルの出版物と人との関係性に対する考え方を垣間見ることができる。
ショウペンハウエルは本書で、ざっくばらんに言ってしまえば「読書」は「思索」にとって有害なものとして扱っている。
具体的には下記の具合だ。
本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。(中略)だから読書の際には、ものを考える苦労がほとんどない。(中略)そのため、(中略)ほとんどまる一日を読書に費やす勤勉な人間は、次第に自分でものを考える力を失って行く。
ショウペンハウエル「読書について」
そして多量の読書の結果、自分で考える力を失ったのが今の学者だと論じている。
このような事態は多くの学者を例にとれば明らかであり、彼ら学者が常識や正しい判断、事にあたっての分別などの点で学のない多くの人に劣るのもそのためである。
ショウペンハウエル「思索」
当時と現代を同一視することはできないが、これに関連すると思える現代の事例はいくつか思い浮かぶ。
個人的な話だが、私には大学時代に読書を趣味とする同期がいた。
それこそ「1年で300冊読破」を目標にするような本格的な読書家だ。
だがだからと言って、彼が成績優秀で常識ある行動をしていたかというとそんなことはなかった。
今になって考えると、彼は「本を読むこと」そのものを目的にして本を読んでおり、それを自分の中で完全に消化できていなかった印象がある。
ショウペンハウエルの言葉を借りれば
言葉の混乱を頭脳の中でまきおこし、あげくの果てにそれをつめこみ過ぎた精神から洞察力をすべて奪い、ほとんど不具廃疾の状態
ショウペンハウエル「思索」
である。
逆に本当の意味で聡明で博識な人は、多読よりも「復読」、すなわち自分が気に入った本を何度も読み直す人が多い印象だ。
今ぱっと思い浮かぶ人だと、東進ハイスクール講師の林修先生が復読を実施していたと記憶している。
おそらく、こうした人たちは何度も同じ本を読み直すことで著者の思考を自分の頭に落とし込み、自分の思考体系に完全に組み込むという作業をしているのだろう。
これが本当の意味での「読書」の仕方であり、同時に「知識獲得」の仕方である。
そして最終的には、「読書」は自分の思索の結果の裏付け、すなわち
自説をまず立て、後に初めてそれを保証する他人の権威ある説を学び、自説の強化に役立てる
ショウペンハウエル「思索」
ために「読書」をするという段階に行きつく。
これがショウペンハウエルの言う「思想家」のレベル、すなわち多量の知識を基盤とする自分の思考体系が確立しており、足りない部分を補完するために読書をする必要が生じても、
そのすべてを消化し、同化して自分の思考体系に併合することができる
ショウペンハウエル「思索」
レベルである。
終わりに
ショウペンハウエルは、自分で思索した結果得られた知見、洞察が、すでに他者によって構築されたものだとしても、
自分の思索で獲得した真理であれば、その価値は書中の真理に百倍もまさる。
ショウペンハウエル「思索」
という。
理由はざっくばらんに言えば、自分の思索で獲得した知見は消滅する(忘れる)ことはないし、深く理解していてそれを自在に使いこなせるからだ。
自分の中に、その域まで到達している知見が果たしてどれほどあるか。
これから読みたい本もいくつかあるが、同時にもう一度読み直したい本を洗い出して読み直した方が良いかもしれない。
(読み直したい本のほとんどが実家にあるんだけども…)
END
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