個人的には頓死が一番理想的な死に方、と思っていた。
概要
看取りの医師・大井玄が、自らの知見、経験をもとに医学、哲学の観点から人間の理想的な逝き方について考察する。
考察対象は往生の仕方だけでなく、認知症、がん告知、在宅看取り、心霊現象、宗教と多岐に渡る。
後半に向かうに連れて哲学的な色合いが強くなってくるが、身近な例を引き合いに出しながら初心者でも理解が進むような配慮がなされている。
レビュー
内容を含まない、雰囲気としての全体の感想から。
日本語に違和感を覚える部分や、変換ミスと思える誤字といった推敲が不十分と思える部分、専門用語がさらりと使われている部分などところどころ疑問符が付く記述があり、流れるように頭にスーッと内容が入ってくるものではない。
しかし、今まで読んだ難解な文章と比べれば全然わかりやすい方ではあるので、おそらく何度も読み返して内容が染み込んでいくタイプの書籍だと思う。
内容で言うと、タイトルからして「死生観」は避けて通れない内容であり、哲学にも片足以上突っ込んでいるので、(自分含め)哲学慣れしていない読者にとってはとっつきづらい。
だが、これを理解できないとおそらく他の哲学関係の本を読み解くことはできないので、どうにかモノにしたいところだ。
以下、内容に則した感想をいくつか。
「死に方」には何種類かあるが、昔は枯れ枝のように細くなり、黒ずんだご遺体が多かったが、最近は「ぶよぶよ」なご遺体が多くなったらしい。
枯れ枝のようなご遺体があることは自分も知っているが、確かに知っているだけで実際にお目にかかったことはない。
(そもそも実際にご遺体をこの目で見た回数自体、指で数える程度しかないが。)
著者はこの「ぶよぶよ」なご遺体について、心機能が低下した体に無理に水分や栄養を与えた結果、心不全を起こして全身浮腫を起こした状態と推察している。
延命治療が実は体に負担をかけてしまっているという皮肉な結果に終わっているわけだ。
そして逆に枯れ枝のようなご遺体は、自分の身体機能の低下に伴って自然と水分や栄養の補給量を少なくなり、最後はほとんどこれらを摂取しない状態が一定期間続いた結果であり、いわゆる理想的な「老衰」による死に方だという。
自分としてはこの枯れ枝のようになる死に方は理想の逆と思っていただけに、結構意外だった。
現代人の「死」に対する耐性の弱さに対する考察も唸らされる。
昔は家で看取るのが普通だったが、今は病院での死が多数を占めるようになった。
さらに、田舎では車に轢かれた動物の死骸を目にすることが多いが、都会に住むようになるとそういったことも少なくなり、余計に「死」を見かけなくなる。
結果、家庭内や一般生活から「死」が排除され、現代人の「死」に対する耐性が弱くなったという。
自分も田舎出身で、確かに小学生の頃から車に轢かれた猫の死骸が道路に放置されているなんてザラにあったし、誠に不謹慎ながら、白骨化した猫の頭蓋骨を蹴り飛ばして遊んだ記憶もある。
だが大学時代から首都圏での生活が中心となり、今となっては、まれに動物の死骸を見かけると確かに昔よりも驚くようになったように思う。
「死」への耐性の有無は、身近な人間の看取りへの姿勢や、自身の「死」との向き合い方に直接影響を及ぼすため、それなりの耐性はつけるべきだろうが、カリキュラムが悩みどころ。
一番無難なのは、子どもが乳幼児期の頃からペットを飼うことだろうか。
猫、鳥など乳幼児に危害を加える可能性が低いペットを飼い、ともに成長していき最後は自身で看取る。
今のところこれが最も(言葉が合っているかわからないが)教育的な「死」の経験な気がする。
終わりに
本書に関しては1回2回読んだだけでは全部は理解しきれない為、それこそ時間をかけて何度も読んで自分のものにするしかないだろう。
哲学にはぶっちゃけそこまで興味はないが、本書に関してはできる限り理解しておきたい。
まあテーマがテーマなだけに理解にどれだけ時間をかけても良しとして、気張らず気楽にものにしていきたい。
END
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